お船の方生誕御館跡の碑

お船の方生誕御館跡の碑

本与板城のすぐ下に「河内こうちいり」と呼ばれる集落があります。

現在の「光西寺」あたりに、直江氏の景綱、信綱、兼続の三代が住んだ館があったと言われています。

天文22年(1553年)飯沼氏は直江景綱によって滅ぼされ、直江氏が与板に城を構えた後、1556年に景綱のひとり娘「お船」がこの地で誕生しました。

このお船と結婚した兼続は、上杉家側近中の側近としての家柄である「直江家」で有能な家臣団「与板衆」と共に、上杉景勝を支える執政「直江家」の役割を、その後も見事に貫き通すのです。

聡明な賢妻であるお船は一生、兼続を支え続けたのです。 平成20年9月、地元住民によって直江氏三代の館跡として伝えられているこの地に、碑が建てられました。

揮毫(きごう)は小説「天地人」の原作者・火坂雅志氏によります。

お船の方生誕の地

お船の碑 図

看板に書いてあること

本与板城主直江実綱は謙信の父、長尾為景の代からの家臣で、戦国武将としての器量にかける兄晴景を廃して、謙信の家督相続を実現させた股肱の重臣である。

越後国本与板城を領し、始め与兵衛尉実綱を名乗ったが、謙信より景虎の一字を与えられて大和守景綱と改めた。

その景綱の晩年に一人娘として弘治三年に生まれた。

当時与板の交通は信濃川の河船の時代にて、おせんと名付けられたとのこと(さだかではない)。

上野国総社長尾家より、信綱が直江家の養子として迎えられ、お船と結婚し本与板城を継ぐ。

謙信の後継ぎ争い(お館の乱)が起き、春日山城にて重臣であった信綱が刃傷沙汰に巻き込まれ、天正九年死亡。

越後の名家直江家断絶を惜しんで、景勝は信綱の未亡人お船に、樋口与六(兼続)との結婚を命ずる。以来兼続とお船の仲睦まじく、宰相の妻たるにふさわしい良妻賢母で、兼続の意向を充分にくみ、常に兼続を陰で支えていた。

又、景勝の信頼も厚く、上杉家の奥向きの采配もまかされるほど藩政の一部にも参与されたと伝われている。又、景勝の後継ぎ定勝の養育はすべてお船の方に任せられ、後に定勝はお船の方に扶助料三千石を与え優遇した。

兼続は元和元年十二月十九日 六十歳で死亡

お船の方は寛永十四年一月 八十一歳で死亡

アクセス

所在地長岡市与板町本与板
交通アクセス・長岡駅大手口バス停12番線与板行きバス乗車「与板警察署バス停」下車徒歩25分
・関越自動車道長岡I.C.より車で20分
・北陸自動車道長岡北スマートICより車で約5分、中之島・見附ICより車で約15分
駐車場有り 5台
よいたん

地図は光西寺のものですが、お船の方の碑は光西寺に隣接していますよ♪